英国紅茶の歴史
紅茶と英国
紅茶はイギリスが見出した王侯貴族由来のお茶で今では世界中に愛飲者がいます。その歴史を少しだどってみました。
中国と日本の茶の歴史
茶の木は紀元前2700年ごろには中国の雲南省で栽培されていました。漢方薬の始祖、炎帝神農は茶葉を白湯で服用し解毒しました。茶人の陸羽は8世紀頃に「茶経」を著しおいしいお茶を淹れる方法を追求しました。日本にお茶が伝来したのは8世紀頃。13世紀はじめに栄西が「喫茶養生記」を記しました。この頃までは茶を蒸して揉み乾燥させた緑茶が主流でした。
炎帝神農
栄西
ヨーロッパと茶の歴史
オランダ東インド会社
茶がヨーロッパに紹介されたのは1598年にロンドンで出版されたオランダの海洋学者リンスホーテンの「航海談」で日本の喫茶の様子が記されています。日本の茶は1601年にオランダ東インド会社がアムステルダムに輸入し、当時強国だったオランダが茶の貿易圏を掌握しました。オランダでは王族と貴族が茶を飲む習慣が広まりました。イギリスに茶が輸入されたのは1636年あたりと言われておりイギリスはオランダ東インド会社から茶を購入したそうです。イギリスでは茶は薬として飲用されました。イギリスは1644年ごろに中国の福建省から茶を輸入し茶はTeaという言葉に変わり、しばらくは王族と貴族を中心に茶の習慣が根付きました。
Jan Huygen Van Linschoten
1657年、イギリスのロンドンのギャラウェイ・コーヒーハウスで茶が国民(入場料を払える男性)に紹介されました。コーヒーハウスには男性のみ身分の制限なく情報と議論を必要とする人々が集まりました。見た目のよい女性はお茶くみ係、コーヒー給仕係として雇われました。コーヒーハウスでは茶を煮だした後は樽に入れて保管していました。この頃の砂糖は貴重だったため、茶はそのまま無糖やミルクで供されました。コーヒーハウスではコーヒーや茶、ココアやハーブティーとタバコが飲まれました。
その頃の茶の価格は銀の二倍の値段(1ポンドあたり6〜10ポンド)で取引されました。茶はさまざまな体調不良に効くと宣伝され、根拠はなかったのですが何と「壊血病」にも効くと偶然なのか確かめられたのか、本当の効果まで紹介されました。抽出された茶には税金がかけられ英国王室の税収は上がりました。ギャラウェイ・コーヒーハウスは火災で焼失し、調子を崩し1846年に営業が終了しました。
Garraways Coffeehouseがあった場所
その頃の茶の価格は銀の二倍の値段(1ポンドあたり6〜10ポンド)で取引されました。茶はさまざまな体調不良に効くと宣伝され、根拠はなかったのですが何と「壊血病」にも効くと偶然なのか確かめられたのか、本当の効果まで紹介されました。抽出された茶には税金がかけられ英国王室の税収は上がりました。ギャラウェイ・コーヒーハウスは火災で焼失し、調子を崩し1846年に営業が終了しました。
英国王室と茶の歴史
Catherine of Braganza
チャールズ二世の妃となったポルトガルのキャサリン・オブ・ブラガンザ王女は1662年の輿入れの際に船底3隻分の茶と砂糖とスパイス、ボンベイやタンジールの植民地をイギリスに持ち込み、女性自ら茶を振舞ったことで王侯貴族をたいへん驚かせました。キャサリン王妃は日本や中国などから輸入した豪華な箪笥や壺を室内に飾り茶会を催しました。王妃の輿入れにより、イギリス東インド会社はインドに貿易の拠点を手に入れます。イギリスは1669年にオランダからの茶の輸入を禁止しました。
チャールズ二世の跡を継いだ弟のジェームズ二世の妃、メアリー・オブ・モデナは田舎のエディンバラに住んでいた時に茶の習慣とマナーを伝えたといわれています。ロンドンに戻ったメアリ王妃はキャサリン王妃のポルトガル式のマナーに、新たにオランダのハーグ式のマナーをもたらしました。それはケトルで煮だした茶をティーボウルにそそぎ入れ、それを受け皿に移して飲むというものでした。
(今の価値観から見ると、ままごとみたいですね)
茶にミルクを入れて飲む習慣があったのはフランスでした。メアリ王妃はフランスのミルクティーをロンドンの王宮で広めました。茶の中に溶けきれないほどたっぷりの砂糖を入れるとスプーンが立つので「スプーンが立つお茶」といわれました。茶の席では虫歯の数を競ったともいわれます。メアリ王妃はカトリックを広めようとしたため失脚しました。
この頃まではまだ紅茶はありませんでした。
紅茶の登場
Mary II of England
失脚したジェームズ二世の娘、メアリ二世はいとこのオレンジ公ウィリアムズに嫁ぎ、オランダのハーグで最先端の喫茶マナーを身に着けていました。メアリ二世は収集した東洋の陶磁器をケンジントン宮殿とハンプトンコート宮殿に飾ると貴族たちも真似をして東洋の陶磁器を集め始めました。メアリ二世はシノワズリの茶器を愛用していました。1689年には茶の輸入量は激増しました。
この頃、中国の福建省の武夷山で、農民が戦乱で逃げていた間に偶然茶葉が発酵し、甘くよい香りが漂っていたことから半発酵茶が生まれました。イギリス東インド会社はこの噂を聞きつけるとただちに駆け付けその茶を買い「ボビー」と呼びました。ボビーは砂糖やミルクと相性がよく、発酵しているためそれ以上傷むことはありませんでした。イギリスに緑茶に加え、ボビーというメニューも加わりました。貴族の館に勤めている使用人は主人が煎じた後の二番煎じを楽しみました。女主人は使用人に盗まれないように茶の箱(キャディーボックス)に鍵をかけ大切に扱いました。1689年には茶の税金が廃止され、茶葉そのものに税金が課せられました。
1702年、メアリ二世の妹、アン王女が即位しました。この頃からティーポットが普及しました。アン王女は連日社交パーティーを開いて大きな銀のティーポットを作らせました。ホストとなった王侯貴族は客の前で自慢のティーポットで茶を振舞いました。アン王女のおかげで茶とバター付きのパンを朝食に頂く習慣が広まりました。
1706年にトワイニング社が創業し王室が好んだ習慣を商品にしましたが、当時は男性しか店を利用することができませんでした。トワイニング社は1717年にゴールデン・ライオンという店をコーヒーハウスの隣に開き女性も茶を変えるようにすると、中流階級にも茶の習慣が広まりました。混雑した喫茶店で注文を優先するために「チップの箱」が設置されました。
1707年にロンドンにフォートナム&メイソンというアン王女が利用した品々と同じ物を販売する高級店を開き上流階級のの顧客を多く抱えました。
茶の庶民への普及
1714年にアン王女が亡くなりドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ一世として国王になりましsた。ロンドンのコーヒーハウスは店によって客層が固定化していました。ロンドン火災の復興で庶民の住環境が改善され庶民も家に客を招き茶をもてなせるようになりコーヒーハウスの件数は減少しパブやレストラン、クラブにかわりました。
1711年、中国の貿易圏を強めたイギリスは茶の輸入量を増やし茶の関税を1ポンド5シリングに引き上げ他国からの茶葉の輸入を禁止しました。イギリス東インド会社は国内で茶葉を独占しました。輸入された茶葉は100%の関税により2倍の値段で売られました。イギリス東インド会社はマン島やワイト島に茶を隠し密輸することで関税を逃れて大きな利益を上げ配当は毎年8%にのぼりました。
1709年にはドイツのマイセンで西ヨーロッパではじめて磁器の焼成に成功し1740年代にはイギリスにもチェルシー窯やボウ窯、ダービー窯といった磁器窯ができました。
廃れたコーヒーハウスにかわり、ティーガーデンがロンドンの郊外に登場しました。ティーガーデンは身分問わず女性や子どもも入場可能で週末は馬車の渋滞が起きました。ティーガーデンの入場料は1シリングとコーヒーハウスの12倍程度で労働者の日給に相当しました。ティーハウスは労働者の家族でにぎわいました。
茶の習慣はそれまで男性が主導権を握っていましたがトワイニングやティーガーデンの登場で女性が茶を振舞るようになりました。砂糖はまだ高価で鍵のかかる箱に入れられていました。茶会は女性たちの情報交換や探りを入れるための場所となりました。
茶に対して議論が湧くようになりました。ジョン・ウェスレーは1746年に茶を飲むと震える症状が起きたと思い込み(震えは茶と無関係でした)、大好きな茶を絶って貧しい人々の救済に充て茶が社会奉仕の妨げとなっていると救済できた人数の結果を公表しました。ウェスレーは12年後に再び茶を飲み始め救済をやめました。ウェスレーはウェッジウッドのティーポットを愛用していました。ジョナス・ハンウェイは茶がイギリス社会に悪影響を与えていると言い茶を買うお金で栄養のある食べ物を買うように言いました。ジョンソン博士は茶のせいではないが、神経性の病気が増えたと指摘し茶を飲みに集まっている人は実はテーブルを囲むこと(群れること)が本当の目的で集まっていると言うと、人々は共感を示しました。
清王朝と紅茶
清朝時代の喫茶
中国では明が滅び北方の民族の清が建国されました。清国は貿易を制限しイギリスに開かれた港は広州の四か月のみ、しかかも貿易相手は許可のある者のみとなりました。日本は鎖国で長崎の出島しか開かれていませんでした。イギリスは中国や日本からの輸入で大きな貿易赤字を抱えて銀貨が減少し、高騰していました。
経済問題の打開のためイギリスは植民地を拡大しました1664年にアメリカ大陸に進出しました。イギリス人の中産階級は大儲けして上流階級になるためにこぞってアメリカに移民しました。アメリカにも茶の習慣がもたらされヴォクソール・ティーガーデンスが1750年に開かれました。
イギリスは植民地に貿易赤字を負担させようするため1764年にアメリカに砂糖税や1765年に印紙税を課しました。アメリカに渡ったイギリス国民には参政権がありませんでした。アメリカのイギリス人は反対運動を行い課税は廃止されました。どうしてもアメリカに課税したいイギリスは1767年にタウゼンド諸法を制定し茶や紙、塗料、ガラスなどに関税をかけました。アメリカに移住したイギリス人は不満を募らせていきました。イギリス人移民はフランスなどから茶葉を密輸しイギリスの輸入品を拒絶しました。イギリス東インド会社は在庫を大量に抱えました。1773年にイギリスは茶法を制定しアメリカには在庫を解消するため関税を一時廃止しましたが、アメリカのイギリス人の反発はますます高まりました。
1773年にボストンティーパーティー事件が起きました。ボストンの市民はイギリスの船の荷揚げを拒絶し船が襲撃されました。
1775年、アメリカで独立戦争が起きました。
アメリカが独立したため、イギリスでは国内の茶葉の税金を引き上げ密輸茶も横行しました。
1784年、トワイニング社のリチャード・トワイニングがピット首相に働きかけたおかげで茶葉の関税が119%から12.5%に引き下げられ、トワイニング社の茶葉の扱いは約3倍に増えました。
1793年、清の乾隆帝はイギリスのジョージ・マッカートニーに三跪九叩頭の礼(属国であることを認める礼で朝鮮の仁祖が服従を誓った礼)を求めます。マッカートニーは跪いて手に接吻しただけでしたが殺されることはなく丁重に遇され牝牛を一頭貰いました。清は必要な物はすべて有していると港を開きませんでした。
乾隆帝
イギリスはインドからアヘンを清に密輸出し茶を輸入するアヘン貿易を行いました。アヘンはたちまち清の王族貴族から庶民にまで行き渡り人々を中毒にし1820年代には清が貿易赤字になりました。
インドと紅茶
1818年イギリスとインドの貿易が自由化されました。
1833年イギリスと清との貿易が自由化されました。
イギリスはインドと中国の港を開かせると経済が復活し、イギリスはアジアの安い人件費に注目しました。
1787年頃からイギリスは珍しい植物を清から密輸しインドで増やしはじめました。その中には茶の木もあったといわれています。
インドのアッサム地方には雲南省の少数民族ジュンポー族が住んでいて自生しているお茶を飲んだり食べる習慣を持っていました。東インド会社の社員ロバート・ブルースは1823年にジュンポー族と接触しました、翌年は弟のチャールズ・アレキサンダー・ブルースに茶の木を持ち帰らせましたがそれは茶と似た有毒な椿の木でした。
1828年に植民地のインド総督に任命されたウィリアム・ベンティング卿はインドでの茶の栽培を計画しました。清から茶の木と職人を密輸入し、インドで栽培する計画を立てました。コルカタ植物園で増やされた4万2千本の茶の木はインド各地に送られ栽培がはじめられましたがうまくいきませんでした。アッサムで野生の茶の木が発見されましたが中国の茶に劣ると判断されこの木の増殖栽培は見送られました。
1830年代になるとロンドンでは労働者の禁酒運動が盛んになりました。
アッサムティー
1838年、チャールズ・アレキサンダー・ブルースによりアッサムの原種から作られたアッサムティー(緑茶)が完成しました。1839年にロンドンでアッサムティーが披露され1ポンド16〜34シリングという高値で取引されました。ロンドンにはアッサムカンパニーが設立しコルカタには支店のベンガル茶業会社が開設されました。アッサムはミャンマーの侵略や内紛で人口が減少したため多くの中国人が雇われましたが現地の住民と対立して定着しませんでした。インド人も連れて来られましたがコレラやマラリアにかかり多くが亡くなりました。アッサムの密林には危険な象や虎などがいました。輸入が思うようにいかず、チャールズは1843年に会社を解雇されました。1850年代にはアッサム茶の栽培は軌道に乗り熱帯に適応した新品種も生み出されました。
清の末路
林則徐
イギリスがアヘン貿易で儲けた噂を聞きつけたアメリカとフランスも中国にアヘンを密輸するようになり清の皇帝の息子までアヘンで死ぬほどになりました。1839年、広東に派遣された役人の林則徐はアヘンの取り締まりを強化し関わった中国人を死刑に、商館を封鎖しアヘンを廃棄しました。イギリスはアヘンの拠点を香港に移そうとしましたが、九龍でイギリスの船員が農民を殺した事件が起こり、林則徐はイギリスとの貿易を全面禁止しました。
イギリスは清に対し、武力攻撃を決定し港を襲撃し占領しました。
清は1842年に降伏し南京条約に署名し巨額の賠償金を払い開港しました。アヘン戦争に勝利したイギリスはプラントハンターとして園芸家のロバート・フォーチュンを清に送りました。ロバート・フォーチュンはスパイの修行を積んで中国の奥深くまで侵入し茶の技術や苗木を盗みました。ロバート・フォーチュンは頭を剃り現地の人間に扮し苗木はコルカタに送られました。フォーチュンは武夷と気候が似ているダージリンで茶の栽培をはじめました。
紅茶の発明
1851年、清の福建省で政和紅茶が誕生しました。これはイギリスに求められて作られた硬水でも抽出できるお茶でした。この紅茶は渋みも強く、ミルクにも負けない濃さでした。紅茶の製法はすぐにインドにも伝えられました。
アフタヌーンティー
アフタヌーンティー
イギリスでは貴族のアンナ・マリナが午後の四時ごろに茶を自室に運ぶよう使用人に命じ、茶とともにバターつきのパンを食べました。イギリスでの夕食は午後5時からでしたが、ランプの普及でこの頃には午後9時になっていました。空腹を満たす必要があったのです。アンナ・マリナは皆もこの時間帯には空腹ではないかとドローイングルームに招いたゲストにも茶と菓子を振舞うと、上流階級の人々にもアフタヌーンティーが浸透しました。キッチンとは別に臭いが付かないようスティルルームが設けられそこで菓子などが作られました。応接の間も、部屋を飾る食器や調度品も増えました。
労働者の生活の向上
児童労働禁止や長時間労働の規制、最低賃金の値上げ、必要物資の価格規制、図書館や動物園や博物館など経済的負担の少ない娯楽の設置でイギリス人の労働者の暮らしと知的レベルは向上しました。1851年に開かれた万博は成功をおさめいくつもの公共施設が建設され労働者はアルコールの誘惑から遠ざかりました。
紅茶と東インド会社の衰退
クリッパー船
1860年代になるとイギリスの港は他国の船にも開かれました。アメリカの商船「クリッパー」は香港からどこの船より早く500トンの紅茶を積んでイギリスに到着しました。速度の速い船が開発された背景にはアメリカ沿岸で監視の目をかいくぐるために逃げ足の速い船が必要だったからです。1年半かかった輸送も90日程度に短縮され茶葉の品質も良い状態になりました。イギリス東インド会社は貿易の独占権を失い1857年のセボイの乱で痛手を受け、1874年の配当金を最後に経営が終わりました。フランスとエジプトによりスエズ運河が開通すると、1875年に運河の経営に参加し、イギリスの船は40日に短縮しました。1877年、イギリス東インド貿易会社の権益を掌握したイギリスのヴィクトリア女王は皇帝となり英国領インド帝国を建国しました。
セイロンティーの登場
イギリスは1796年にスリランカのセイロンをオランダから武力で奪いインド人のタミル人を働かせてコーヒーを生産していました。1860年代になるとコーヒーの木が病気で壊滅し、セイロンでも紅茶の栽培がはじまりました。1852年、16歳でセイロンに渡ってきたスコットランド人のジェームズ・テーラーはコーヒーの労働者としてセイロンで働き始めました。マラリアに効くと噂されたキナノキの栽培に成功をおさめたテーラーはルーラコンデラでアッサム種の栽培をはじめました。1873年にロンドンに送られた茶葉は高い評価を受けました。テーラーは幼いころに母を亡くし父に愛されず、独身を通し57歳で亡くなるまでひたすら紅茶の生産に休まず励みました。
紅茶チェーン店の登場
1880年代になるとロンドンにティールーム(紅茶のカフェ)エアレイテッド・ブレッド・カンパニーが登場し女性も男性のエスコートなしに店を利用できるようになりました。創業者のスチュアート・クランストンは絶対禁酒運動でノンアルコールの飲料と菓子が食べられる店が流行すると思ったのでした。1903年にはウイロー・ティールームがオープンしました。
ウイロー・ティールーム(最近)
ティーバッグの登場
ティーバッグは1896年にイギリスのA.V.スミスが考案したと言われ、アメリカのトーマス・サリバンは1920年代にティーバッグを商品化しました。1950年代にはアメリカでの紅茶は大半が家庭で消費されるようになりました。
Thomas Sullivan Tea Bags
20世紀の紅茶
1900年代になるとアフリカの植民地、ケニアでも紅茶の生産がはじまりました。紅茶の栽培はマラウイ、ウガンダにも広まりティーバッグに入れるためのCTC製法が普及しました。第一次世界大戦後にリプトン社やブルックボンド社(Brooke Bond Tea)、マザワッテ社(Watte)が紅茶のティーバッグの生産を強化しました。トワイニング社も個包装の紅茶の販売をはじめました。大企業による紅茶の大量生産・大量販売により価格は押し下げられ、小さな会社は潰れていきました。
日本には1880年代から紅茶が輸入され海外の要人に振舞われました。1903年になるとリプトンのティーバッグの輸入がはじまりました。1909年には日東紅茶の前身である三井合名会社が創業し植民地の台湾で紅茶の生産をはじめました。
1930年に農業恐慌が起こり農作物は生産過剰になり1933年に紅茶の栽培を拡大しない協定が結ばれました。1939年、イギリスは戦争のため紅茶を配給制にしました。戦時でもイギリス人は紅茶を愛飲し工場では1日2回のティーブレイクが設けられました。
アフターヌーンティー 1942年ロンドン
1947年にイギリスの抑えつけが効かなくなったインドとパキスタンが独立しました。
1960年代にウガンダ、マラウィ、ケニアが独立しました。
1972年にスリランカが独立しました。
イギリスはケニアに投資し、紅茶の生産を強化しました。
リプトンが湯に溶ける紅茶を開発し、アメリカでは受け入れられましたがイギリスでは受け入れられませんでした。イギリス人は忙しくても紅茶を愛しました。1960年代にはイギリスにもコーヒー、エスプレッソ、ファストフードが進出して若者に受け入れられました。1980年代になり海外からの人々の往来が自由になってくるとティールームも一部復活を遂げました。
日本では2010年代になると有機栽培紅茶やフェアトレード紅茶が増え始め日本産の紅茶、デカフェ紅茶も見かけるようになりました。
参考書籍
より深く紅茶を学べる本を紹介します。この本があれば紅茶通になれるかも!
こちらの文庫のほうがより正確な内容となっています。
感想
紅茶の歴史を見てみると、現在の価値観から見るとイギリスなどの列強は酷いことをしたように見えます。しかし当時の清は漢民族を支配した北方の別民族なので、強制的に辮髪などを強いられた漢民族にとっては、どっちがより嫌なのかは今から見るとわかりませんし、短命で文字も読めない多くの人にとっては誰が自分を支配しようと、さほど違いがなかったかもしれませんし分別も今ほどなかったでしょう。
気になったのでアッサムとビルマの戦争について詳しく見てみましょう。アッサム王国(アーホーム王国)にはアーホーム族が住んでいて、1826年まで存続していました。イギリス人がジュンポー族と接触した1823年にアッサム地方はまだアーホーム王国でビルマと戦争中でした。ミャンマーのアッサム侵攻(1817年–1826年)でアッサムはいったんミャンマーの支配となっています。その混乱に乗じたイギリスは第一次英緬戦争(1824年-1826年)を起こしミャンマーは敗北してアッサムだけでなくマニプールとアラカン、テナセリムを失いました。つまり、イギリスは紅茶が欲しくてビルマのコンバウン王朝と戦争したのではないかと思います。勝てると味をしめたイギリスは1852年にミャンマー(ビルマ)を挑発して第二次英緬戦争を起こしました。ビルマ王国は国土の半分を失いイギリスに取られました。
このイギリスとビルマの戦争が後のロヒンギャ問題に繋がってきます。Wikipediaによるとロヒンギャが流れ着いた土地は阿羅漢族という仏教徒の土地でした。日本はアラカン族の武装を支援し、イギリスは(紅茶欲しさに?)ロヒンギャの武装を支援し両勢力はそれ以来殺し合いを繰り返して憎悪を重ね、今に至るのです。ですからミャンマーの主要勢力の言い分もあるのですが、やり方がいけません。ロヒンギャはもとはバングラデシュ方面から流れ着いたともいわれています。ミャンマーだけを批判する世論も実は正しいとはいえず、バングラデシュやマレーシア、タイにインドネシアもロヒンギャを拒絶しています。
このイギリスとビルマの戦争が後のロヒンギャ問題に繋がってきます。Wikipediaによるとロヒンギャが流れ着いた土地は阿羅漢族という仏教徒の土地でした。日本はアラカン族の武装を支援し、イギリスは(紅茶欲しさに?)ロヒンギャの武装を支援し両勢力はそれ以来殺し合いを繰り返して憎悪を重ね、今に至るのです。ですからミャンマーの主要勢力の言い分もあるのですが、やり方がいけません。ロヒンギャはもとはバングラデシュ方面から流れ着いたともいわれています。ミャンマーだけを批判する世論も実は正しいとはいえず、バングラデシュやマレーシア、タイにインドネシアもロヒンギャを拒絶しています。
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